江戸の成人男性は1日5合の米を食べていた

2015年6月に発刊された「江戸の食卓に学ぶ」(車浮世;ワニブックス「PLUS」新書)という本を読んでみた。本当はもっと早く読むべきだったのだが、最近しばらく本を読む習慣をなくしていたので、家の中で「未読」状態の本が山積みされている…。

 

近頃はご存知の通りの「低炭水化物ダイエット」ブームで、外来をしていても、「とりあえず、ご飯を減らしています」という方も増えてきている。しかし、実際には、白飯といった穀類だけを減らす手法では結局減量も血糖値改善もできない患者さんが少なからずおられる。

 

私が大学病院で「糖尿病教育(支援)入院」グループのグループ長として長年働いていた中で、いわゆる「ご飯多めで、おかず少なめ」の病院食を食べてもらうと、1週間のうちに、みるみる体重が減って血圧や血糖値も劇的に改善していく患者さん達を、本当にたくさん診てきた。患者さんご本人も、その改善度合いに驚かれる方が多くおられた。

 

僕が大好きな野球漫画「ドカベン」の中にも、あの昭和の昔懐かしい雰囲気で、たくさんご飯を食べているシーンが出てくる。しかし、その舞台となっていた昭和40~50年代頃は、今と比べて日本での糖尿病患者数はかなり少なかった事実がある。

 

そういった意味で、いつしか昔の日本人はどんな食事をしていたのだろうという疑問を持つようになった。

 

 

この本の著書の車浮世氏は、江戸料理研究家で、江戸時代の江戸で生活する人達の食生活を詳しく調査されておられるとのこと。

 

印象的だったのは、

1日3食が定着したのは、江戸元禄時代(1688~1704年)以降とのこと。

それまでは、公家の世界では朝食をお昼くらいに、夕食を午後4時頃、庶民は朝早くから起きて一仕事終えた後に朝飯、仕事の合間に遅い昼飯と、時間帯こそ異なるが、身分の上下に関係なく2食だったとのこと。

特に貧しい階層の身分の人達は、家の中の照明用に使う菜種油が買えなかったため、日暮れとともに寝てしまうのが賢明な選択であった。

それが、江戸時代中期頃になると、江戸庶民が買えるくらいに菜種油の値が下がり、仕事を終わってから夕食を食べるようになっていったとのこと。また、その頃には屋台や飯屋ができ、外食産業も栄えたようだ。

 

ただ、今とは異なっていた部分もある。それは江戸時代、江戸では1日分のご飯をまとめて炊いて、昼と夜は冷や飯。一方、上方では昼に炊いて夕食と朝食が冷や飯だったとのこと。

いずれにしても、竈に火を熾すのは大変な作業であったため、何度も手間をかけないようにするための苦肉の策であったようだ。

従って、江戸では、朝炊いたご飯をお昼のお弁当として持って出たそうだ。一方、上方では、昼に温かいご飯で昼食をたくさん食べて、朝・夕食は簡単に済ませていたとのこと。いずれにせよ、夕食はお茶漬けにして食べていた程度で、今の時代のように夕食を豪勢にお腹一杯たらふく食べるのとは、かなり趣が異なっていたことが伺われる。

 

そして、江戸っ子の米好きは相当なもので、当時の成人男性は1日に5合もの白飯を食べていたと言われている。これは、武士や富裕層でも江戸庶民でも同様であったとのこと。ただし、居候の身分では「居候 三杯目は そっと出し」と、稼ぎの少ない立場では少し肩身の狭い思いをしていたようだ。

 

ただ、田舎に暮らす農民は、年貢を納めねばならず、米3割、麦7割でしか食べられず、江戸以外の地方でも米7割、麦3割がせいぜいで、白飯食べたさに、江戸へ出稼ぎに出てくることも多かったそうだ。

 

また、江戸の食事は「箱膳文化」で、旅館の宴会のように、家族の人数分のお膳が出されていた。このため、1人1人が食べる品数や量も、自然と決まっていた。

「ちゃぶ台」を使われるようになったのは明治維新以降のこと。ここから次第に、今の時代の大皿盛でおかずが提供され、「どれくらい食べたか」自分で把握できていない糖尿病患者さんが続出する要因にもなったと言える。

 

このように、我々の先祖は、現代とはだいぶ異なった食文化の中で暮らしていた。

こういう江戸時代の食文化を知ることで、今のように、夕食で目一杯たくさんおかずを食べて、白飯は少なくするといった食文化が、かなり歴史の浅いということも分かってくる。

 

生まれは昭和の時代なのに、平成・令和の時代に食生活が大きく変わってしまったためにメタボになり、様々な生活習慣病や動脈硬化・がんなどを発症してしまうことが大きく問題になっている今だからこそ、家族みんなでもう一度自分達の食生活を見直してみることも必要ではないだろうか?